両利きの経営


探索・活用の両利きになるまで

 21世紀に入って、探索・活用(exploration/exploitation)の両利き(ambidexterity)の経営は研究者達にとって流行の研究テーマの1つとなった。にもかかわらず、両利きの定義や概念は曖昧かつ多様なままで、もはや収拾がつかなくなっている 。そこで、Kuwashima, Inamizu, and Takahashi (2020)に基づいて、探索・活用の両利きの経営の系譜を整理しておこう。

 組織論で「両利き」を初めて使ったとされるのは、Duncan, R. B. (1976). The ambidextrous organization: Designing dual structures for innovation. In R. H. Kilmann, L. R. Pondy, & D. P. Slevin (Eds.), The management of organization design: Strategies and implementation (pp. 167?188). New York, NY: North-Holland で、多くの研究が盲目的に引用する。しかし、この論文は、タイトル「両利きの組織: イノベーションのための二重構造を設計する」に「両利きの組織」(ambidextrous organization)が入っているだけで、本文中には「両利き」も含めて一度も登場しない。もちろん探索・活用も登場しない。当時流行のコンティンジェンシー理論に乗っかって、イノベーション過程を創始と実施の2段階に分け、それぞれ異なる組織構造が適合すると主張し、それを二重構造(dual structure)と呼んでいるので、タイトルの「両利きの組織」は、おそらくこれを指していると推測される。

 その15年後にMarch (1991)が発表され、そのさらに5年後に有名な Tushman and O'Reilly (1996) が発表され、進化的・革命的(evolutionary and revolutionary)両方の変化過程をいかに管理できるかを論じる際に、「両利きの組織」の概念を使い、「漸進的・不連続的両方のイノベーション・変化を同時に追求する能力は、同じ企業内の複数の矛盾する構造・過程・文化を運営することから生まれる」(p.24)としたが、実は、Duncan (1976)もMarch (1991)もどちらも引用していなかった。

 Tushman and O'Reilly (1996)に刺激されて、1990年代末以降、多数の両利きの研究が行われるようになったわけだが、なぜかその大半がMarch (1991)を引用し、探索・活用に言及し、両者の両利きを議論するようになる。しかし、研究者の多くは、March (1991)をちゃんと読んだこともなければ、理解もしていなかったと思われる。なぜなら、そもそもMarch (1991)は、

  1. 組織のメンバーと組織コードとの間の相互学習モデル
  2. 首位獲得競争モデル
の二つのコンピュータ・シミュレーション・モデルを構築、分析することがメインの論文なのだが、そのシミュレーションに重大な疑問があることを誰も指摘してこなかったからである。実はBは、数学的分析が可能で、その計算結果とシミュレーション結果が合わない(高橋, 1998)。またAの方も、シミュレーションの結果から「組織メンバーの側の遅い学習が多様性を長く維持するために探索につながる」(p.75)と結論しているが、なぜかMarch (1991)のシミュレーションは、社会化率の定義域の両端が抜けており、その部分に、本当は平均知識レベルを最大にする最適な社会化率が存在していた(Mitomi & Takahashi, 2015)。

 多くの研究者が引用している部分は、March (1991)が、活用と探索は根本的に異なる学習活動だと規定し、「探索(exploration)には、探索(search)、変化、危険を冒すこと、実験、遊び、柔軟性、発見、イノベーションなどの用語でとらえられたものが含まれる。活用(exploitation)には、改良(refinement)、選択(choice)、生産、効率、選抜(selection)、実施(implementation)、実行(execution)などが含まれる。」(p.71)と訳し分けるのが難しいくらいの類義語を列挙している箇所であろう。これに基づき、探索と活用とはトレードオフ関係にあると主張した(pp.72-74)。

 ここから、探索と活用にはトレードオフが存在し、それらを同時追求するためにはどうすればよいかについて多くの研究関心を集めることになる。実際、その2年後に発表され、探索・活用研究でもよく引用される論文「学習の近視眼」(Levinthal & March, 1993)は、学習の近視眼 (myopia of learning)の概念によって、学習の負の側面を指摘した論文と位置付けられることが多いが、本来は、学習の近視眼とは、学習により、探索よりも活用が優先される傾向があるというだけで、そのこと自体が悪いわけではない(Sato, 2012)。

 この論文をMarchと一緒に書いたLevinthalは、その後、Kauffman のNK モデルを用いた組織適応の研究に進む 。NKモデルでは、各エージェントが自らの遺伝子を組み替えながら環境への適応度を上げる過程をシミュレーションする。そこでは、遺伝子を大幅に入れ替える探索(long-jump or distant search)と、ごく一部しか入れ替えない探索(local search)の有効性の分析に主眼が置かれる(モデル設定上、両者は併用できない )。そして、前者を探索、後者を活用と安易に捉える研究が散見されるようになっていく 。しかし、どちらも探索(search)であることに違いはなく、March (1991)は探索(exploration)と定義していたわけで、後者を活用に見立てるのは間違っている。こうして、探索と活用は、どんどん曖昧さを増すことになる。

 さらに、March (1991)では、イノベーションを含む探索と含まない活用とはトレードオフの関係にあると主張し、だからこそ、Levinthal and March (1993)は学習の近視眼を唱えたわけだが、そのトレードオフの関係ですら崩れつつある。実際、探索・活用を同時に実現されうる直交する変数、言い換えれば、個別に測定できる分離独立した変数と定義する研究も多く 、いまや探索と活用はトレードオフの関係 (一軸) にある両極の概念なのか、それとも直交する二軸なのかですらもコンセンサスがない。現状では、両利きの定義にコンセンサスはないといっていい。

ブリコラージュ

 そこでKuwashima, Inamizu, and Takahashi (2020)は、March (1991)のアイデアに立ち返りながらも、あいまいに使われるようになってしまった活用 (exploitation) の代わりにレヴィ=ストロース(Claude Levi-Strauss; 1908-2009)のブリコラージュ(bricolage; 器用仕事)の概念用いることを提案した。ブリコラージュとは簡単に言えば「持ち合わせのものでなんとかする」(making do with whatever is at hand) (Baker & Nelson, 2005, p.329)ことを指している。そもそも、レヴィ=ストロースの『野生の思考』(La Pensee sauvage) (Levi-Strauss, 1962)によれば、まず、ブリコルール(bricoleur; 器用人)とは「ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る人」(Levi-Strauss, 1962, p.26 邦訳p.22)である。そして、

彼の使う資材の世界は閉じている。そして「もちあわせ」、すなわちそのときそのとき限られた道具と材料の集合でなんとかするというのがゲームの規則である。しかも、もちあわせの道具や材料は雑多でまとまりがない。なぜなら、「もちあわせ」の内容構成は、目下の計画にも、またいかなる特定の計画にも無関係で、偶然の結果できたものだからである。(Levi-Strauss, 1962, p.27 邦訳p.23)

 こうしたブリコルールの「野生の思考」に基づくブリコラージュとは対照的に、エンジニアは「科学的思考」で新しい道具と材料(tools and materials)を探索する。科学とブリコラージュの対照例としては、新型コロナウイルス対策が分かりやすい。2019年暮れに中国・武漢で初めて患者が確認された新型コロナウイルスSARS-CoV-2を原因とする感染症COVID-19は、2ヶ月あまりで世界152カ国に拡散し、WHO (世界保健機関 World Health Organization)は2020年3月11日に伝染病の世界的流行「パンデミック」(pandemic)を宣言した。新型コロナウイルスに対して、科学は、診断法開発、治療法開発、ワクチン開発の「探索」で対応した。しかし、それには時間がかかり、その間、特効薬もワクチンも存在しない中で、日本で2020年初から採られたCOVID-19対応は、もちあわせの道具や材料を用いた、まさにブリコラージュそのものだった。「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」(2020年2月25日)は、(a)通常の風邪やインフルエンザ対応と同様に、マスクの着用、手洗いの徹底の呼びかけ、(b)テレワークや時差通勤の推進等の呼びかけだった。実際、(a)は日本人にとって常識的な「風邪」対策であり、(b)のテレワークも、起源は1970年代の米国に遡り、日本でも1991年には日本テレワーク協会の前身である日本サテライトオフィス協会が設立されている(2000年に改称)。

 日本の場合、このようなブリコラージュに対して、科学は全く心もとなく、例えば日本のPCR検査能力は、先進国とは思えないほど低く、安部晋三首相は、4月6日になって、ようやく実施可能な一日当たりの検査数を「2万件に増加させる」と目標を表明したが、厚生省が目標に達したと表明したのは5月15日で、しかも、実際には、医師が必要と認めてもPCR検査を受けられない状態で、5月前半の検査件数は一日3000件から8000件程度で推移するというありさまだった。それでも、日本ではブリコラージュで感染拡大を抑えることに成功し、海外から「日本の不思議な成功」(Japan's mysterious pandemic success)と呼ばれた。事実として、感染拡大は抑えられたのだが、PCR検査数のあまりの少なさから、本当に感染が抑えられたのかが疑問視されていた。しかし、厚生労働省の抗体検査の結果が6月16日に発表され、6月1日から7日にかけて人口が一定規模ある地域のうち、10万人当たりの感染者数が最も多い東京と大阪、最も少ない宮城の3都府県で、無作為抽出した20歳以上の男女合わせて7950人を対象に、新型コロナウイルスの抗体検査を実施した。その結果は、抗体を保有している人の割合は、東京0.1%、大阪0.17%、宮城0.03%で、ほとんどの人が抗体を保有していないことが明らかになった。つまり、感染拡大が抑えられたことは科学的事実だった。

 科学は進んでいて、ブリコラージュは野蛮であると考えがちである。ところがレヴィ=ストロースは「それらは人智の発展の二段階ないし二相ではない。なぜならば、この二つの手続きはどちらも有効だからである。」(Levi-Strauss, 1962, p.33 邦訳p.28)と述べている。まさにブリコラージュと探索はどちらも有効で、併用される。これが真の両利きである。つまり

  1. March (1991)は、探索と活用の間にはトレードオフの関係があるとしていたが、レヴィ=ストロースによれば、そもそも、現代においては、科学(探索)とブリコラージュは併用するものであり、両利きが通常の姿である。しかも、
  2. March (1991)は、探索はイノベーションを含むが、活用は含まないとし、このことが活用の概念を曖昧にする原因となったが、ブリコラージュは Schumpeter (1934, p.65 邦訳p.182)がいうところの新結合(new combination)そのものであり、紛れもなくイノベーションである。
つまり、探索・活用ではなく、探索・ブリコラージュであれば、どちらも現実にイノベーションとして併用されており、現代においては探索・ブリコラージュの両利きが通常の姿なのである。このように活用をブリコラージュに入れ替えると、両利きは混乱を回避して、整合性のとれた概念に変身する。


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