心理的契約(psychological contract)という用語は、従業員と経営者の間での「文面に書かれていない期待」一般に言及するものとして広く用いられてきた。その嚆矢的研究は職長と労働者との合意形成について分析を行ったArgyris (1960) とされ、その後Levinson, Price, Munden, Mandl and Solley (1962) やSchein (1978) などによって、個対個 (組織と従業員) という二者関係で、必ずしも文書化されない相互期待が、文書化された契約と同じように拘束力を持つと考えられてきた(服部, 2013; 山城・菅, 2015; Yamashiro, 2015)。
そんな心理的契約研究の中でも、Rousseau (1989)は、心理的契約という概念をより狭義に再定義することで、定量的調査を容易にした論文として、後続研究に数多く引用されることになる。一般的に、文書化されていない「非成文契約」として一緒くたに扱われているが、Rousseau (1989)は、暗黙的契約(implied contract)と心理的契約(psychological contract)を区別する必要があると主張している。なぜなら、(a)双務的か片務的か、(b)客観的か主観的か、の違いがあり、そのことで、(c)違反があったときの反応が大きく異なるからである。
暗黙的契約は、
心理的契約は、
その後、心理的契約に関しては、調査や概念深化が進んだが、暗黙的契約に関しては、Rousseau自身も言及しなくなってしまった。しかし、客観的に観察可能な互恵的パターンである暗黙的契約は、実務的には実質的な契約であり、明文化されていなくても裁判等では契約とみなされる可能性が高い。また、暗黙的契約を違反した際に、契約解除的反応を引き起こすので、その存在をより明確に確認できる。例えば、長期雇用は、第一義的に個人の確信ではない。客観的に観察可能なこれまで続いて来た互恵的パターンである。慣例的に続いてきた長期雇用という互恵的パターンに変化が生じた場合というのは、組織側が暗黙的契約を違反したということになる。これに対する従業員の反応は、心理的契約違反の時のように、「裏切られた」とショックを受けて個人的なトラウマを感じるのではない。「話が違う」ということになり、暗黙的契約違反の時のように、これまでの互恵的なパターンを従業員も変化させることになる。つまり、暗黙的契約違反に対する契約解除的反応として、従業員が当該組織を見限って転職したり、組織と向かい合うスタンスを変えるといった反応が客観的に観察される(Yamashiro, 2015)。
Rousseau (1989)では、長期雇用の不履行を、心理的契約違反の事例として挙げているが、これは暗黙的契約の事例として挙げられるべきものである。また、同論文では暗黙的契約違反の事例として、従業員の競合企業に対する手助けや横領を挙げている。しかし、これは明らかな犯罪であり、明文化された刑法によって従業員は裁かれる事態となる。これは、暗黙的契約の違反ではなく、単純な法律違反を扱った事例であろう。Rousseau (1989)では、心理的契約違反の事例についても暗黙的契約の事例についてもこれ以上の具体例が出て来ない。そのため、心理的契約と暗黙的契約の差異が捉えにくくなり、後続研究で、心理的契約が偏重される要因の一つとなっている(Yamashiro, 2015)。
暗黙的契約違反の分かり易い事例としては、Takahashi, Ohkawa, and Inamizu (2014a, 2014b, 2014c)で取り上げられているX社の事例がある(Yamashiro, 2015)。X社では、転勤がないと契約上は確約されていたわけではなかったが、長年誰も転勤しなかったため、転勤はないという慣例、すなわち、客観的な互恵的パターン「転勤はないという暗黙的契約」が存在していた。しかし、それまで各地方の独立企業だった会社が合併し、日本全国でX社一社に統合され、事業所も三分の一にまで再編されることなる。そこで会社側が従業員に転勤を求めたところ、会社の予想を大幅に上回る全体の20%近くもの社員が早期希望退職をする事態となった。この現象は、転勤がないという暗黙的契約を違反したことに対する契約解除的反応として、従業員は会社を辞めたと理解できる。このように、たとえ明文化されていなくとも、慣例的な互恵的パターンとして客観的に認識されている事象、例えば、長期雇用・職場規則などに対しては、暗黙的契約として分析する必要がある。しかし、Rousseau (1989)の後続研究では、こうした暗黙的契約までも心理的契約として取扱い、個人の自己申告だけに基づいた安易な分析している場合が少なくない(Yamashiro, 2015)。
COVID-19の影響により、日本では在宅勤務(telecommuting)が急速に普及した。従来の在宅勤務研究では、在宅勤務はi-dealsの結果であり、location flexibility i-deals (LFi-deals)であるという前提で議論が行われてきた。ここでi-dealsとは、個人が雇用者と交渉して得た特別な取り決めのことで、idiosyncratic dealsを略してi-dealsと呼んでいる(Anand, Vidyarthi, Liden, & Rousseau, 2010)。ところが、COVID-19の流行下では、半強制的な在宅勤務が出現した。そこでTsukamoto (2021)は、