人間は各人、類似した状況であれば、同一人を多かれ少なかれ同じ行動に導くような、時間的に安定したある一定量の心理的プログラム(mental programs)をもっていると推測される。そのおかげで人間の行動はランダムではなく、ある程度予測可能なので、社会システムは存在しうるのだ(Hofstede, 1984, p.14 邦訳p.2)。
ただし、心理的プログラムには、その人に固有の部分と、他の人と共有している部分とがある。それを図1のように三つのレベルで図示すると、その底には、すべての人間に共通して存在する普遍的レベル(universal level)の心理的プログラムとしては、人体の生物学的な活動システム、笑いや涙のような表出行動、集団行動、攻撃行動が含まれる。他方、一番上には、個人的レベル(individual level)の心理的プログラムとは個人のパーソナリティーのレベルのものである。では、その間の集合的レベル(collective level)の心理的プログラムとは、どんなものだろう。これは、一定の集団やカテゴリーに属している人々に共通に見られるが、他の集団やカテゴリーに属している人々には共有されていないものである。例えば、自分自身を表現するための言語、年長者に対する敬意、快適であるために保たれる他者との物理的距離、食事・恋愛のような一般的な人間の活動を知覚する方法とそれに伴う儀式である。そして人間の文化はこのレベルに属している(Hofstede, 1984, pp.15-16 邦訳pp.4-5)。
図1. 心理的プログラムの独自性の三つのレベル
(出所) 高橋(1995) p.126, 図1。
実際、文化人類学を意識してか、経営学分野でも、文化を記述する際には、いかにも儀式の側面を強調する傾向がある。後で詳述するディール=ケネディの『企業文化』(Deal & Kennedy, 1982)の副題が「企業生活の儀式」(The rites and rituals of corporate life)になっていることは象徴的である。
しかし、似たような問題意識の研究が経営学分野になかったわけではない。組織文化がブームになる以前の1970年代までは、組織風土(organizational climate)の研究が盛んに行なわれていた。下位集団の集団風土(group climate)や個人の心理的風土(psychological climate)とは異なり(林, 1996)、組織風土とは、リットビン=ストリンガーによれば、「そこで生活し働く人々が直接あるいは間接に知覚し、彼らのモチベーションと行動に影響を及ぼすと考えられる仕事環境の測定可能な特性の集合」のことである(Litwin & Stringer, 1968, p.1邦訳p.1)。
文化を記述する際には、いかにも儀式の側面を強調する傾向があるが、そもそも質問票の測定尺度のレベルで考えると、組織文化も組織風土も調べるべき事項に本質的違いがあるわけではない。しかも、組織文化も組織風土も、企業のもつ組織的な特性のうち、(i)その企業内では同質的だが、(ii)他の企業と比べると異質なものを指しているという点では共通している。ただし、それまでの組織風土が、(iii’)長期にわたって変わらないもの、ということを条件にしていたのに対し、組織文化は、(iii)変えることができる、とされている点に違いがある。ではなぜ組織文化は、変えることができると強調されたのだろうか? これは、企業文化あるいは組織文化が、当初、米国の経営コンサルタントたちによって、変革の対象―それ故、コンサルの対象になる―として唱えられていたせいでもある。そのことを念頭に置いて、組織文化論を読み解くと、理解が容易になる。
日本的経営に対する評価が好転していく中で、1980年代に入ると米国企業の生産性の伸びの低下を嘆く論調が強くなってきた。そんな米国企業に取って代わって躍進してきた日本企業を目の当たりにして、文化という言葉がキー・ワードになってきたのである。
もともと「企業文化」という用語は、1980年に『ビジネス・ウィーク』誌(Business Week, October 27, 1980, pp.148-160)が、1983年には『フォーチュン』誌(Fortune, October 17, 1983, pp.66-72)が企業文化の特集を行ったことで、米国で急速に普及したといわれている。学術誌でも1983年には『アドミニストレーティブ・サイエンス・クオータリー』誌(Administrative Science Quarterly: ASQ, Vol.28, No.3, 1983)が組織文化の特集を行い、日本でも1983年には『組織科学』誌(Vol.17, No.3, 1983)が「コーポレート・カルチャー」の特集を組んでいる。論者によって、企業文化(corporate culture)と呼んだり、組織文化(organizational culture)と呼んだりするが、ここでは両者を同じ意味の用語として扱う。
このような米国企業の生産性の伸びの低下を嘆く論調は、米国で「企業文化」「組織文化」をブームにしたわけだが、その裏側には、組織文化の形を借りて、日本的経営の長所を見習って、それを取り入れようという動きがあった。その代表的存在が、オオウチのベスト・セラー『セオリーZ』(Theory Z) (Ouchi, 1981)であった。直接的に日本的経営を移植するのではなく、文化はその企業の基本的な価値と信念をその従業員に伝達する一連のシンボル、儀式、神話からなっているとし(Ouchi, 1981, ch.2 邦訳p.68)、日本企業とよく似た文化の米国企業に見習って文化を変えることを提言していた。
そこではまず、日本企業の組織の理念型としてタイプJ、米国企業の組織の理念型としてタイプAを考える。タイプJの終身雇用、遅い人事考課と昇進、非専門的なキャリア・パス、非明示的な管理機構、集団による意思決定、集団責任、人に対する全面的な関わりという特徴とは対照的なものとして、タイプAの短期雇用、早い人事考課と昇進、専門化されたキャリア・パス、明示的な管理機構、個人による意思決定、個人責任、人に対する部分的関りを挙げている。
例えば、米国では経営幹部ですら離職率が高い。管理職は3年間も重要な昇進がないと失敗したという気持ちになり、早期に昇進しないと企業をすぐに変えてしまうというヒステリックな症状を示す。その結果、短期雇用となり、早い人事考課と昇進が必要になると指摘する。1960年には4,000人ほどしかいなかったMBA新規取得者が1980年には45,000人にもなったことも火に油を注ぐ結果となっているというのである。1960年代の合併・買収ブーム以降、1970年代にかけて、米国企業で未来係数が急速に低下していく様子と、その一因としてのMBAの急速な進出が挙げられていて興味深い。当時、こうした受け止め方をしたのはオオウチだけではなかった。1980年代に唱えられた企業文化論、組織文化論も基本的に同じ認識をしていたようである。例えば、後で登場するディール=ケネディーは、1960年代はM&Aによるコングロマリットの時代で財務部門の人達が昇進し、1970年代は戦略的計画の時代でMBA達が出世したが、その危険性は明白で、成功するためには、経営者は一時的流行につられて昇進させるのをやめさせ、その代わりに企業の中心的な価値を体現している人達を昇進させなければならないとしていた(Deal & Kennedy, 1982, p.49 邦訳p.84)。
ところが、オオウチは米国企業の中にもタイプJと類似した特徴をもっている企業があることに気がつく。IBM、ヒューレット・パッカード、インテルなどの企業である。これらの企業は日本の真似をしたわけではなく、米国で独自の発展をしてきた企業なのである。そこでオオウチはこれをタイプZと呼び、このタイプZによる経営が米国においても可能であり、このことで生産性が左右されることを主張したのである。この『セオリーZ』の原型は、オオウチが1978年にジョンソン(Jerry B. Johnson)との共著で発表した論文 (Ouchi & Johnson, 1978)に遡ることができる。そこでは米国企業の組織の理念型としてタイプA、日本企業の組織の理念型の米国版としてタイプZを考えているのみで、タイプJは登場していない。表1に示すように、そこで挙げられているタイプZの特徴のうち、個人責任を集団責任に置き換えたものが『セオリーZ』ではタイプJとされているので、明言はされていないが、正確にはタイプZはタイプJとタイプAの中間型と位置付けられることになる。)
表1. オオウチのタイプJ・タイプZ・タイプA
タイプJ | タイプZ | タイプA | |
---|---|---|---|
雇用 | 終身雇用 | 終身雇用 | 短期雇用 |
人事考課と昇進 | 遅い | 遅い | 早い |
キャリア・パス | 非専門的 | 非専門的 | 専門的 |
管理機構 | 非明示的 | 非明示的 | 明示的 |
意思決定 | 集団による | 集団による | 個人による |
責任 | 集団責任 | 個人責任 | 個人責任 |
人に対する関わり | 全面的 | 全面的 | 部分的 |
これに対して、オオウチと共同研究していたパスカルも、エイソス(Anthony G. Athos)との共著『ジャパニーズ・マネジメント』(The art of Japanese management) (Pascale & Athos, 1981)を同じ年に発表する。こうしてオオウチの『セオリーZ』は、翌1982年のピーターズ(Thomas J. Peters)=ウォーターマン(Robert H. Waterman, Jr.)の『エクセレント・カンパニー』(In search of excellence) (Peters & Waterman, 1982)、ディール(Terrence E. Deal)=ケネディー(Allen A. Kennedy)の『企業文化』(Corporate cultures) (Deal & Kennedy, 1982)といった日本企業を意識した一連の企業文化ものの先駆けとなったのである。ただし、後者の2冊も、日本企業を見習えと主張したわけではないことには注意がいる。例えば、ディール=ケネディーの主張は、米国企業はNCR, GE, IBM, P&G, 3Mといった米国の偉大な会社を作り上げたオリジナルの概念やアイデアに帰る必要があるというもので、1960年代後半からのM&Aブーム、コングロマリット・ブームが始まる前の米国の企業を見習えというものだった。
ディール(Terrence E. Deal)=ケネディ(Allan A. Kennedy)の『企業文化』(Corporate cultures; ただし翻訳の邦題は『シンボリック・マネジャー』) (Deal & Kennedy, 1982)は全編が興味深い逸話に満ちた逸話集のような本である。この本は、日本の店のレジでもよくその商標「NCR」を見かけたナショナル・キャッシュ・レジスター社(National Cash Register; NCR)の元会長エリン(S. C. Allyn)が好んで話したという次のような印象的な話から始まる(Deal & Kennedy, 1982, pp.3-4 邦訳pp.13-14)。
エリンは1945年8月、第二次世界大戦終戦後初めてドイツを訪れた連合国側の民間人の1人として、戦争直前に建てられたNCRの工場を見に行った。焼け落ちたビル、瓦礫、廃墟を抜けて工場跡までたどりつき、煉瓦、セメント、木材をかき分けていくと、なんと2人のNCR社員がいるではないか。6年振りの再会である。服はぼろぼろ、顔は煙ですすけて真っ黒だったが、瓦礫の後片付けに励んでいる。エリンが近づくと、1人が顔を見上げてこう言った「きっと来ると思ってました」。エリンも彼らに加わり3人で一緒に後片付けをしていると、数日後、今度は米軍の戦車が轟音を轟かせてやって来た。運転席のGI(米軍兵士)が笑顔でこう言った「やあ、僕はオマハ(米国ネブラスカ州東部ミズーリ川に臨む河港都市)のNCRだ。君達は今月のノルマを果たしたかい」。工場の建物は破壊され、あらゆるものが荒廃を極めていても、会社はこうして生き残り、NCRの強烈な販売志向は損なわれなかったのである。ディール=ケネディはこう言う。ビジネスは豪華な建物でも、ボトムラインでも、戦略的分析でも、5ヶ年計画でもない。会社が本当に存在したのは従業員の心の中だった。NCRは過去においても、現在においても、一つの企業文化(corporate culture)なのである。そこで働く人々にとって大きな意味を持つ価値、神話、英雄、象徴の凝集なのである。
しかし、1960年代になるとコングロマリットの時代となり、シャープペンシルを手にした財務部門の人達が昇進した。1970年代は戦略的計画の時代で、問題児、負け犬、金のなる木、花形で武装したMBA達が出世した。その危険性は明白である。経営者は一時的流行につられて昇進させるのをやめる必要がある。成功するためには、その代わりに企業の中心的な価値を体現している人々を昇進させなければならない(Deal & Kennedy, 1982, p.49 邦訳p.74)。
1980年代初頭、米国では米国企業の生産性の伸びの低下を嘆く論調が目立つようになっていた。1960年代〜1970年代に隆盛を誇ったMBAの分析、ポートフォリオ理論、費用曲線、計量経済学モデルではこうした問題は解決できなかったのである。当時、日本では米国と比べて、従業員がはるかに企業に一体感をもち、経済・社会における企業の役割に共鳴しているように見えたために、日本の経営を見習えと主張する本も何冊か出版された。同時に、米国でも成功のモデルと見なされる企業は同様の特色をもっているということもわかってきていた。
そうした中でディール=ケネディによって唱えられた解決方法は、次のように明解である(Deal & Kennedy, 1982, p.5 邦訳p.15)。米国企業はNCR, GE, IBM, P&G, 3Mといった米国の偉大な会社を作り上げたオリジナルの概念やアイデアに帰る必要がある。1960年代後半からのM&Aブーム、コングロマリット・ブームが始まる前の米国の企業を見習うべきだ。ただし、その頃の米国企業は、出版当時の日本企業と同じ様な企業文化をもっていた。例えば、マサチューセッツ工科大学(MIT)を卒業したてのエンジニアの卵が、ベネズエラのゼネラル・エレクトリック社(GE)に初出社したときの話。
「真新しい計算尺をもって、新調のスーツを着て、大学の指輪をはめて出社したのです。無愛想な年配の上役が私を迎えるなり、ほうきを渡さして、床を掃けと言うじゃないですか。もちろん、私は口をぽかんとあけて、しばらく突っ立ったままでした。(中略) しかし、新入りでしたから、言われたとおりにしました。あれはまたとないいい教訓でした。」(Deal & Kennedy, 1982, p.65 邦訳p.94)
つまり、人々が企業を動かしていることを思い出す必要がある。そして、文化がいかにして人々を結び付け、日々の生活に意味と目的を与えているかについて、先人の教訓を学び直す必要がある。米国企業の創立者達は強い文化(strong culture)が成功をもたらすと信じ、従業員の生活と生産性は彼らの働く場によって決まると信じていた。従業員が生活の不安を感じることなく、それゆえ事業の成功に必要な仕事ができるような環境つまり事実上の文化を社内に作り出すことが自分達の役割であると考えていた。これら初期のリーダー達の教訓は社内で代々の経営者に受け継がれてきた。彼らが注意深く築き、育んだ文化が、景気の浮沈を乗り越えて、組織を維持してきたのである。
こうして、米国で1980年代に企業文化論、組織文化論がブームとなるわけだが、オオウチの議論も含めて、そのモデルを日本の経営に求めていることは明白である。オオウチやパスカルの著書の出現により、日本的経営の見直しの動きは新しい局面を迎えた。1980年代半ば頃から日本経済がバブル景気に浮かれていた1990年前後には、日本的経営の移植に対する関心が最高潮に達する。この時期のメイン・テーマは日本企業の生産性の高さであり(アベグレンの『日本の経営』の評価とは真逆)、その源泉として、自動車産業を中心とする日本企業の生産システムが注目を浴びることになる。
トヨタの生産方式に焦点を当てた門田の『トヨタシステム』(Monden, 1983)は、数ヵ国語に翻訳され、読まれた。ここでトヨタ生産方式あるいはジャスト・イン・タイム生産システム(JIT生産方式)とは、必要な物を必要な量だけ必要な時に生産することで、過剰在庫や過剰な人件費を排除して、コストを低減させるシステムである。そのための手段として、後工程で使った部品を定期的に前工程に引き取りに行き、前工程は引き取られた量だけ生産するという「かんばん方式」がとられる。こうした生産システムであれば、文化とは異なり、日本以外の国でも導入可能なはずで、実際に、こうした生産方式を採用した日本の自動車メーカーの米国進出工場が成功をおさめている様子も紹介された(島田, 1988)。
そして、こうした関心は、製造工程だけにとどまらず、自動車の製品開発プロセスにまで向けられる(Clark & Fujimoto, 1991)。1990年には、MITが中心になってそれまで5年間続けてきた自動車産業に関する大規模な国際研究プロジェクトの最終報告書が出される。世界の優れた自動車生産システムの主流はかつて米国が誇っていた大量生産方式ではなく、日本企業がとっている企画、製品開発、製造、さらには部品業者、販売業者に至るまでの無駄なく柔軟な「リーン(lean=痩せた)生産方式」に移行したと指摘するのである(Womack, Jones, & Roos, 1990)。
また、こうした動きは生産システムだけに限ったことではない。雇用システムでも同様の動きが指摘されている。もともとドーアは、英国など先発先進国が市場志向型から日本的な組織志向型雇用システムへ移行していると仮説を出していた(Dore, 1973)。つまり、雇用の期間と条件は、労働者の熟練が他の雇主から外部市場においていかなる対価を受け取るかということから影響される度合をますます弱めていき、各企業独自の相対的ランク付けの内的構造に適した比較的安定的な長期雇用の存在を予想するものへと移行するとしていたのである。しかし出版当時(1973年)は、英国の学会でそのようなことを発表すると、「とんでもない」と退けられるのが普通だったという。ところが、やはり1980年代後半になると、事情はかなり変わってくる。当時、日本語版(1987年)に寄せられた「日本語版への序」によれば、英国では、
ところが1990年代前半に日本経済のバブルは崩壊する。それ以降の「失われた10年(20年?)」に日本で起きたことは、輸入学問としての経営学の面目躍如といったところである。巷にはカタカナのままで経営用語が氾濫した。しかし冷静に見ると、その多くが逆輸入ものであった。品質管理で一例を挙げよう。
日本では、デミング(W. Edwards Deming; 1900-1993)博士が、日科技連(日本科学技術連盟)の招きで1950年7月に来日してセミナーが行われ、技術者や管理者に統計的品質管理の指導を行った。この講義録が有料配布され、その印税が日科技連に寄付されたことで、それを基金として翌1951年にはデミング賞が創設された。1952年には日科技連が各工場に現場の品質管理活動を自主的に行う職長・組長を中心としたQCサークルの設置を呼びかけた。この日本独特のQCサークル活動が着実に成果を挙げたことで、デミング賞とともに、日本の品質管理は世界的に高く評価されるようになる。
他方、米国では、1980年代に入って、ドル高、貯蓄貸付組合(S&L)の倒産続出、不況、失業率増加等の中で、日本的な経営管理の研究が徹底的に行われた。日本のTQC (total quality control)も1980年代に米国へ輸出され、米国企業の復活に大きな役割を果たしたといわれているが(日本のTQCの欧米での訳語はTQM (total quality management)とされ、日本でも国際慣行にしたがってTQMと呼ぶことになった)、1987年に、米国では、デミング賞を意識したマルコム・ボルドリッジ賞(MB賞)が創設される。MB賞は工場の現場での品質管理ではなく、顧客の品質認識を評価の中心に据えたものだったので、今度は日本で日本生産性本部が、日本版MB賞である日本経営品質賞を1996年に創設する。