学問の世界では、まずは個人の決定問題や合理的な意思決定について考える。ところが、実際には、人間が一人でポツンと孤立して意思決定をしている例は存在しない。あのロビンソン・クルーソーでさえ、無人島に漂着した後も西洋社会の一員として暮らし続けたのであり、彼は西洋的なカレンダーと曜日の感覚を持って生活していた。だからこそ、金曜日に出会ったという理由で、従僕に「フライデー」と命名できたのである。人間は常に何らかの意味で組織に属して意思決定を行なっている。
それでは、なぜ人間は組織を作って、その中で意思決定を行なっているのだろうか。その答えは、一般に、人間の「限定された合理性」(bounded rationality)に求められる。限定された合理性の出自については、高橋(2008)で検討されているが、人は全知全能で無限定に合理的な存在というわけではないが、だからといって本質的に不合理でハチャメチャな存在でもない。限られた範囲内の決定問題であれば合理的な選択を行なうこともできるのである。実際の自分の行動を振り返ってみよう。現実的に人間が解くことができる決定問題は、行動案の数がごく少ないか、あるいは、各行動案の結果やその価値、効用が簡単な形をしているものに限られる。つまり、人間の限定された合理性のサイズに合った問題までしか解けないのである。そこで、何らかの装置を使って、何とか解ける程度のサイズまで決定問題を小さくする方策が求められる。こうした装置の代表的なものが実は組織なのである。
そして同様の理由で、「人類は幾世紀もの間、比較的反復的で良く構造化された環境から提起される問題に対し、組織内に予測可能なプログラム化された反応を開発・保守するような技術を驚くほど蓄積してきた」のである(Simon, 1977, p.51 邦訳p.69)。このようにして形成されたプログラムやルーチンの一部が、メンバーの異動にもかかわらず、組織として伝承されてきたのである。
そもそも期待効用理論は、無限定に誰にでもいつでも適用可能なものだったわけではない。より具体的に言えば、ある一組の仮定を満たして意思決定が行われるときに初めて、くじの効用関数が存在し、それが賞金の期待効用の形になることを証明することが可能になるのである。また主観確率も、それにさらにいくつかの追加的仮定を満たしたとき、はじめて存在が証明できる(高橋, 1993, ch.3)。これら一連の仮定を要件として満たしたときに、はじめて一般の意思決定に期待効用理論が適用可能になるのである。
こうした仮定は、一つ一つを個別に見れば、それぞれに納得のできるものではあるが、しかしこれらすべての仮定を常時満たしていることは、われわれ現実の生身の人間にとっては容易なことではない。その意味では、決定理論においては、現実の生身の人間よりは、かなり条件の整った「人間」が想定されていると考えなくてはいけない。
実は、それほどまでに条件を整えることは組織の中においてのみ可能になることなのだが、しかし実際には、それまでゲーム理論・決定理論では、組織の存在を仮定せず、孤立した人間のものとして「合理的」選択のモデルが作られてきた。その結果、人間の能力に過大な期待をかける全知的に合理的な人間モデルを想定せざるをえなくなってしまったのである。これは経済人(economic man)モデルと呼ばれ、次のように特徴づけられる(Simon, 1957, pp.xxv-xxvi; March & Simon, 1958, p.140)。
そして、Simonはこうした議論の延長線上に、より現実的なフレームワークとして近代組織論を位置づけたのである。例えばこんな風に・・・われわれ人間には、経済人モデルが求めているような高度な問題解決能力は備わっていないし、だいいち利用可能な労力や時間にだって制約があるのです。実際にわれわれが解けるような問題は、代替案の数がごく限られているか、あるいは、各代替案の結果やその価値、効用が簡単な形をしているものばかりでしょう?だから組織が必要なんですよ・・・と。
そこでSimonが唱えたのが、次のような特徴をもった「経営人」(administrative man)の人間モデルだった(Simon, 1957, pp.xxv-xxvi; March & Simon, 1958, p.140)。
そして、経営人たる人間が、なんらかの意味で合理的に意思決定できるとしたら、前述の合理性の限界についての指摘の裏返しで、次のことが、意思決定に先立ってあらかじめ定められ、与えられているときに限られると考えたのである。
その理由を近代組織論は、人間の「限定された合理性」(bounded rationality)に要約してみせた。人は全知全能で無限定に合理的な存在というわけではないが、だからといって本質的に不合理でハチャメチャな存在でもない。限られた範囲内の決定問題であれば合理的な選択を行なうこともできる。われわれは気がついていないだけで、実際には、組織が現実の状況にふるいをかけ、決定問題を単純化するという濾過作用を日常的に果たしてくれている。そのおかげで、われわれは日々手頃で簡単な決定問題に取り組むことができているのである(March & Simon, 1958, pp.154-155 邦訳p.236)。このことによって、合理性に限界のある人間が、はじめて合理的に意思決定をすることができるのである。
サイモン(Simon, 1947)およびマーチ=サイモン(March & Simon, 1958)によって精緻化された近代組織論は、実はこうした発想に支えられている。そして近代組織論では、ゲーム理論や決定理論のように決定問題やモデルを解くことではなく、その決定問題が組織的状況の中でいかに形成されるのかということに関心がある。つまり、こうして「因数分解」されて手頃の大きさになった決定問題(正確には意思決定過程)の連鎖として組織をとらえ、それを分析の出発点としているのである。 実際、経営学ではケース・メソッドに代表されるように、意思決定プロセスの最後の瞬間である「決定」にだけ注意を向けるのではなく、それに先行する長々とした組織的プロセス、すなわち個人の決定問題が組織の中で形成されてくるプロセス自体に重大な関心が払われる。こうした理由から、近代組織論では、組織の分析・考察に当っては、分析の最小単位を意思決定(decision)にではなく、そこに至るまでに登場する意思決定前提(premise)に置くことになる。言い換えれば、意思決定を「諸前提から結論を引き出す過程」(Simon, 1976, p.xii 邦訳序文p.8)として扱うことにするのである。この組織的意思決定プロセスを分析することで、行動の予測も可能になる。例えば、サイモン(Simon, 1957, pp.xvii-xviii 邦訳序文pp.13-14)は、販売部長、生産計画部長、工場長、製品デザイン担当技師の4人の架空の会話を設定して、
そして、こうした認識から、次の二つの基本的性格を組み込んだ「合理的選択の理論」(theory of rational choice)が示される(March & Simon, 1993, p.160)。
この理論では、人間が組織の中に身を置くことによって、組織の中での心理学的・社会学的過程による濾過作用を受けることを肯定的に扱っている。つまり、組織は、その中に身を置く人間が直面している現実の状況にふるいをかけ、歪みを加えながら単純化を行うという濾過作用を果たす点でまさに重要なのであり(March & Simon, 1958, pp.154-155 邦訳p.236)、この状況定義が存在することによって、合理性に限界のある人間が、はじめて合理的に意思決定をすることができるのである。普通、人間は、組織の中で状況定義を獲得するのである。
バーナード(Barnard, 1938)によって創始された近代組織論(modern organization theory)は、こうしてサイモン(Simon, 1947)およびマーチ=サイモン(March & Simon, 1958)によって、さらに精緻化された。マーチはその後、1970年代に入って、素朴な意思決定論には馴染まない現実の意思決定状況を説明するための分析枠組みとしてゴミ箱モデルを提唱するようになる(Cohen, March & Olsen, 1972)。ここでは、近代組織論の考え方をまとめると見えてくる全体像についてだけ、次のように結論的に述べておこう。