日本的経営


敗戦処理

 1980年代に、米国で企業文化論や組織文化論がブームになった背景には、1970年代から始まる日本的経営への関心の高まりがある。しかし、日本的経営に対する評価は、無責任に右往左往してきた。そのことを高橋(1997; 2004; 2015)を元に、簡単に整理しておこう。

 そもそも「日本的経営」の登場自体が敗戦処理の一環だった。1945年8月15日に、日本は第二次世界大戦の敗戦を迎えるが、戦後、比較的早い時期から、「進んだ米国の経営に対比して遅れた日本の前近代的な経営」というニュアンスを込めて「日本的経営」という言葉が日本国内で使われるようになったといわれている。日本に駐留するGHQ (General Headquarters: 連合国軍総司令部)や欧米の研究者の間では、欧米の労使関係制度の枠組みを大きく逸脱する前近代的なもので、後進性の現れととらえられていたのである。

 このころの議論の中心は、日本の労使関係であった。後に、日本的労使関係の「三種の神器」として有名になる終身雇用、年功賃金、企業別組合なども、1960年代までは、欧米の労使関係研究者の間でも、欧米の労使関係制度の枠組みを大きく逸脱する前近代的で家父長主義的な枠組みを引きずるものであり、後進性の現れととらえられていたのである。

終身コミットメント

 そんな日本的経営を世界に紹介したのがアベグレン(James C. Abegglen; 1926-2007)の『日本の経営』(Abegglen, 1958)である。原題は The Japanese factory つまり『日本の工場』だった。その原題が示す通り、アベグレンは1955年から1956年にかけて日本の19の大工場と34の小工場を訪問調査し、その結果をもとにして『日本の経営』を著した。日本的経営に関する海外の文献でこの本を引用しないものはほとんどないというほどの記念碑的業績になった。

 アベグレンは、米国の工場との決定的な違いとして、日本で見られる終身コミットメント(lifetime commitment)に着目する。これは、日本の工場では、雇い主は従業員の解雇や一時解雇をしようとしないし、また従業員も辞めようとしないということを指している。日本企業の実態から考えても、終身雇用というよりもこちらの方が正確だと思われるが、アベグレンによれば、米国の会社では、逆に高い移動率は望ましいものと考えられていたというのである。

 ただし、終身コミットメントがあると、そのままでは日本の工場では、景気変動や需要変動に適応できなくなってしまうので、環境の経済的・技術的変化に対する緩衝化が必要になる。そこで、日本の工場では、現在でも広く観察される次の二つの方法が既にとられていたという。

  1. 終身的な正規の従業員の他に臨時工員を利用する。
  2. 大工場に結合した形で、かなりの子会社、関係会社をもち、下請けが行われている。下請けは時には親会社の工場内で行われている。

 どちらも現在でも使われている方法である。1については、工場に限らず、いまや日本企業では、どこでも当たり前にみられる。たとえば、本社ビルの受付に座っている女性、外部の人間からすると、その会社の顔ともいえるこうした女性は、多くの場合、人材派遣会社からの派遣社員である。セキュリティー管理の厳しいコンピュータ・ルームで、忙しそうに働いているシステム・エンジニアやオペレーターなどのコンピュータ技術者集団の多くも、実はコンピュータ会社の人間である。銀行によっては、支店の窓口できびきび働く女性「行員」もほとんどが正社員ではない。また大型量販店によっては、電器売り場の店員の多くが、メーカーから派遣されてきた人である。また2の方は、「親会社」の周辺に様々な雇用条件(就業規則・賃金体系)の会社を配置する方法で、1970年代以降の電機メーカーなどで「生産子会社」「分身会社」として流行したものも同様なシステムである。また、工場をちょっと見ただけでは分からないが、2の後半部分、すなわち親会社の工場内での下請けもよく用いられる方法である。

 しかし、どのケースでも、第三者から見れば一つの組織である。見かけだけではなく、実態としても一つの組織として動いている。「組織」は実態として機能しているネットワークやシステムの概念なのだが、「企業」はもともと制度であり、境界、あるいは仕切りの概念なのである。いまや、複数の企業が一つの組織として機能しているという光景は、まったく当たり前の光景なのだ。これを組織のネットワークが企業の境界を超えて活動の範囲を広げていると見ることもできるし、あるいは、いくつもの企業を束ねるネットワークとして組織を見ることもできる。しかし、どちらにしても重要なのは、私たちの関心が、企業の内部外部にかかわらず、本来は、組織としての活動にあるということなのである。つまり、私たちの関心は、常に組織としてのパフォーマンスにあるのだ。こうした組織を「超企業・組織」と呼んでいる。これは造語だが、「超企業」とは英語で言えば ”transfirm”―これも造語だが―つまり「企業の境界を超えた」「多企業の」という意味で、最近の多くの経営学のトピックスが、「超企業・組織」的な世界観に支えられている(高橋, 2000; Takahashi, 2014)。そして、アベグレンの発見は、戦後の日本企業が、終身コミットメントへの対応として、超企業・組織を有効に利用し、経営してきたということなのである。

終身コミットメントを基本にした制度

 いずれにせよ、アベグレンは、終身コミットメントは、求人や採用の制度、動機づけと報酬の制度との間に相互に密接な関係をもっており、まさに日本の工場組織全体の基本的な部分をなしていると指摘する(Abegglen, 1958, ch.2)。そのことをアベグレンの著書にしたがって、順に整理しておこう。

  1. 採用時の選考……終身的であれば、採用時の選考の失敗はなかなか正せないし犠牲も伴うので、注意深く選考が行われる(Abegglen, 1958, ch.3)。
  2. 給与制度と動機づけ……いくつかの工場での例を挙げて、職員と工員では賃金体系が違うものの、工員に対する生産性手当は、通常は生産高が標準生産高基準を超えているために、実質的には恒常的かつ安定的に支払われていることを指摘する。つまり制度ではなく、実際の運用で、給与は主として年齢と教育程度の関数である基本給によって決まるというのである。いわゆる年功賃金のことである。そして、賞与もそれを当てにして従業員が生活水準を考えられるほどに定期的な賃金制度となっているが、この賞与のおかげで、経営者は基本的な賃金制度を改めることなしに、報酬に対する組合の要求に応えることができることも指摘している。福利厚生費は直接労務費総額に対して20%の付加分をなしている工場もあったという。米国では、現金支払賃金は報酬のはるかに大部分を占めていて、従業員が会社に対する自分の価値や自分の職務に対する成功度を評価するのに用いられ、生活水準や健康水準は個人の責任の問題となっているが、それと対比される(Abegglen, 1958, ch.4)。
  3. 階層・キャリア・組織……日本の工場の管理組織は公式的には精巧であるが、機能的には不明瞭で、粗雑にしか定義されていない。決定に際して、直接にその個人的責任を負う危険にあえて一個人をさらすことをせず、能率を犠牲にしてでも会社内の人間関係を維持しようとする。また、通常、共通の大学の経験と背景を基礎にして、大会社にははっきりとした閥が作られており、それは昇進と成功に対して非公式にではあるが、非常に重要な役割を果たす。訓練は主としてOJT (on-the-job training)であり、先輩や上司から学ぶことを意味している。こうして従業員と上司との密接な関係を促進することで、本質的に家父長的関係で従業員を会社に結び付けるきずなを強めているとされる(Abegglen, 1958, ch.5)。
  4. 従業員にとっての工場……実際、「良い職長は、父親が自分の子供を見るように、自分の工員を見る」という所見にすべてのグループから強い同意が得られた。米国の大企業の比較的非人格的かつ合理化された生産方式・組織的制度と比較すると、日本の工場は家族的であるように思われる(Abegglen, 1958, ch.6)。

 しかし、こうした日本の工場に対するアベグレンの評価は、特に生産性に関しては否定的であった。第7章「日本の工場における生産性」(Abegglen, 1958, ch.7)では、生産性に関連して、終身雇用や年功賃金に対する否定的な見解が述べられていた。すなわち、日本の工場の生産性は、それと同等の米国の工場の50%もなく、多くは20%程度しかない。それは日本企業が終身的であるために、規模と費用の点で固定した非常に大きな労働力を維持しなければならないためである。非能率的な従業員を会社から除くことは非常に困難で、管理階層または現場で不適当と証明された人達のために害のない地位を見つけだすことになる。少なくとも欧米流の着実かつ効果的な生産に対するおもなインセンティブは取り去られている。また、生産における誤りや失敗の責任を特定の個人に帰することを習慣的に回避するために、米国では考えられないような品質管理上の問題が発生しているというのである。

 こうした主張は、40年を経た1990年代のバブル崩壊後の日本で声高に主張されたことと全く同じで驚かされる。しかし、こうした生産性に関する見解は、後で触れるように、15年後の1973年に出版された新版(Abegglen, 1973)では、章ごと完全に削除されることになる。そして評価は180度転換するのである。

終身コミットメントの形成

 ところで、こうした終身コミットメントを核とするシステムは大昔から日本全体にあったものではなく、各社の企業努力の結果として形成されてきたものである。戦前からある日本を代表する企業として、日立製作所を例に、その形成経緯を、菅山(1995)をもとにして見てみよう。1920年に久原鉱業から独立した株式会社日立製作所は、1939年に至るまで、「社員」の規則と「職工」の規則が全く別立てであった。社員は新規学卒者の定期採用により採用され、すべて年給、月給の定額給で定期昇給する制度になっていた。1930年代の離職率は年平均3%程度と、ほとんどの者が永年勤続する現象が見られた。まさに「社員」は年功賃金で終身雇用だったのである。

 しかし、職工は定額の日給をもらっている者も少数派で、多くは出来高払制度が適用されていた。定期昇給は期待できず、職長や現場の係員の恣意的な査定で昇給、昇進が決められることに対して、不平不満が強かったという。1930年代半ばに採用された「定傭工」のうち定期採用者は7%程度で、ほとんどは定期採用者ではなく、最初は「日雇工」として入所して、1年以内に定傭工となった者だった。日雇工の数は定傭工の約半数にのぼっていたという。しかし、1939年、日立工場では「職工」という呼称が「工員」に改められ、戦争経済の破綻が進む中で、生活程度を考慮しない出来高払制の不合理が指摘され、1940年には、標準的労働者のライフ・サイクルと能力曲線に基づき、単価請負から時間請負への切り換えが行われた。1943年には、固定給部分が設定され、日給の半額に相当する額が事実上の固定給部分となった。こうして、第二次世界大戦末期には、ブルーカラー労働者の賃金のホワイトカラー化はかなりの進展をみせたのである。

 日本全体で見ると、労働組合は、終戦から1年半の間に約500万人、雇用労働者の4割を組織したが、1947年8月に実施された調査によれば、そのほとんどすべてが企業単位に組織されており、工員・職員一本の混合組合の比率が8割を超え、職長や係長にも、そして3分の1の組合では課長にまで組合員資格を与える「従業員組合」となっていた。日立工場でも、従業員の間では、工員層でも、優遇されている社員層でも、社員・工員の身分制度撤廃を望む声が強く、1946年5月には工員が組織する組合と社員が組織する組合が合併して「日立工場労働組合」が誕生する。1947年1月には、社工員の身分を撤廃し新たに所員とする協定が成立し、日立製作所の経営陣は身分制度の撤廃に同意する。

 1947年5月には、年齢を重視する生活給的色彩の強い新基本給が労使間で合意され、これによってかつての社員・工員間の賃金格差は一挙に消滅した。それでも、直接現業職については基本給に対する加給の比率が高かったが、実績においてあまり大幅には変動せず、能率給はインセンティブ・システムとしては有効に機能しなかった。

 このことは他の企業でも同様で、当時の日本経営者団体連盟(日経連)が能率給制度の宣伝に努めたにもかかわらず、製造業で能率給制度を適用されている労働者の比率は1950年の46%から、1965年には17%にまで大幅に低下する。こうして、ホワイトカラーとブルーカラーの間に、実質的にも同じ賃金制度が適用されるようになったのである。そして、1960年代に入ると、日本経済の高度成長に伴う深刻な労働力不足と高校進学率の急速な伸びで、企業はそれまで下級のホワイトカラー職として雇っていた高卒を現場労働者として採用するようになった。このことで、高卒者に対してとっていた定期採用方式が、ブルーカラー労働者に対しても見られるようになり、ブルーカラー労働者の雇用制度面でのホワイトカラー化はほぼ完成を見ることになる。こうして、生活費保障給型賃金が、ホワイトカラー、ブルーカラーを問わず、日本企業に定着するのである。

 こうして、日本の大企業では、戦後直後の労働組合による「経営民主化」「身分制撤廃」運動の結果として、ホワイトカラーとブルーカラーの間に、基本的に同じ賃金制度が適用されるようになった。準戦時体制、戦時体制のもとで確立した大企業の賃金カーブは、戦後直後の生活給的賃金制度に受け継がれ、さらに春闘方式のもとで「年齢別生活費保障給型」の賃金カーブが定着する。その結果、日本のブルーカラー労働者とホワイトカラーのスタッフとは、年齢・賃金プロフィール、勤続年数別構成、企業福祉費の割合等において、マクロ・データのレベルで近似することになるのである(小池, 1981)。 こうした傾向は賃金だけにとどまらず、日立製作所の日立工場・多賀工場を研究対象に選んだ英国の社会学者ドーア(Ronald Philip Dore; 1925-)は、英国のイングリッシュ・エレクトリック社の2工場と比較して、日本の大企業では「英国ならばミドル・クラスの職員に限られている特権である年金や疾病手当のような付加給付、かなりの程度の雇用保障、家族生計費の出費増に応じた賃金の上昇などを、現場労働者にまで与えている」と日英間の雇用システムの違いを指摘している(Dore, 1973, p.264 邦訳p.293)。

「日本的経営」

 1960年に、日本経営学会の『経営学論集』第32集として『日本の経営』(日本経営学会, 1960)が出版されるが、これはいわゆる日本的経営に関する書物ではない。この論集の題名は、前年(1959年)に開催された日本経営学会第33回大会の統一論題「日本における経営の諸問題」に由来するものだが、もともとこの統一論題は「経営組織の基本問題」「経営と地域開発」「ビッグビジネスとスモールビジネス」の三つからなるとされており、経営組織の基本問題と言っても、むしろ米国やドイツの話が主体であった。統一論題のみならず、自由論題や討論でも、今日言うところのいわゆる日本的経営に関する議論はない。あえて探せば、日本では責任、権限が不明確であるといった類の文章が見つけられる程度である。これは、当時の経営学会の雰囲気を如実に伝えているといえる。日本的経営に対する国内の関心は高くなかったのである。

 こうした中で、「日本的経営」を題に入れた日本で最初の書物といわれているのが、小野豊明の『日本的経営と稟議制度』(1960)である。同じただしその中では、「日本的経営」という用語は全く用いられず、山城章にしたがい、日本の企業経営を「稟議的経営」と呼んでいる。そして、日本的経営を理解するための中心的な概念として「稟議制度」が取り上げられる。小野は「業務の執行にあたって広く上長または上部機関の決裁または承認を受けることを定めている場合」(p.28)を広く稟議制度としてとらえているが、こうなると、1960年当時の日本企業の経営はまさに稟議的経営であった。つまり、前近代的な要素を多分にもっていて、職能分化が不十分で、スタッフも未発達で、責任体制も欠如しているということになる。

 小野によれば、日本では、「封建的農村社会において長い伝統を持つ家族制度が、西欧から輸入された近代企業にそのまま移植され」(p.4)たのである。その原因は一つには、「近代企業の経営を担当したのが、主として封建時代から存在した同族的商人経営の専門家」(p.4)であったためで、もう一つには「近代企業が農村に近接して成立し、その労働力は農村からの出稼労働者によって満たされたため、伝統的な農業社会の家族制度的な考え方が、そのまま企業社会にもちこまれた」(p.4)ためだというのである。

 しかし小野は、企業の近代化につれて、稟議制度はやがて発展解消し、廃止される運命にあるとしていた。それまでは、職位とその職務権限に関する概念がまだ確立しておらず、稟議書の立案者と決裁者・承認者を明らかにした稟議規定が、職位の権限に関する唯一のものだった。しかし、当時、企業経営の革新が進行中であり、稟議制度のもっていたマネジメント機能を他の制度の導入によって整備して、稟議制度の発展的解消をはかることこそが、まさに近代化の過程だというのである。こうした見方は、1960年代に入って、日本経済の高度成長を目の当たりにしても、なおも支配的であった。吉野洋太郎は、驚異的な経済成長を非常な成功とするものの、日本の社会に基本的変化が生じつつあるために、稟議制度を含めた日本の伝統的な経営慣行には当時既にいくつかの変化が生じ、さらに次の10年間には日本の経営慣行の中に大きな革新が生ずるであろうとしていた(Yoshino, 1968)。

 一方同じ頃、日本の労務管理、労使関係について、その歴史的変遷を分析すると共に、比較的早い時期から「日本的経営」という用語を用いていた間宏は、その著書『日本的経営の系譜』(間, 1963)で、戦前の日本的経営の特質を経営家族主義で要約してみせる。そしてこの戦前の経営家族主義を再編したものとして、戦後の日本的経営が位置付けられる。つまり管理施策の面では、戦前のものを引きずっていて、形式的には全く類似しているというのである。より具体的には@年功序列に基礎を置く経営社会秩序、A終身雇用制、B年功給的賃金体系、C企業内福利厚生制度の充実、といったものがそれだとされる。戦前と戦後で変わったのは理念の面で、戦前の経営家族主義では(戦前の家族制度での)親子関係的な労使一体論で労使関係を考えていたものが、戦後は、労使協調論に立って、企業の繁栄、従業員の生活向上、社会への福祉へ向けての労使協力を考える(これを経営福祉主義と呼んでいる)というように転換されたというのである(間, 1963, pp.261-263)。

三種の神器

 1960年代の日本経済の高度成長期を経て、1970年代になると、欧米の学者によって「日本的経営」の見直しが行われるようになった。つまり、日本企業の経営スタイルにも積極的に評価すべきところがあるというのである。それまでの日本的経営に関する否定的評価が肯定的評価に変わったターニング・ポイントともいえる論文がドラッカー(Peter F. Drucker; 1909-2005)によって発表されたのが1971年だった。ドラッカー(Drucker, 1971)は、当時の米国の経営者の直面する最重要課題として三つを挙げ、日本の経営者がこれらの問題に対して欧米とは異なる対処の仕方をしていることが、日本の経済成長の重要な要因だとした。すなわち、

  1. 効果的な意思決定: 日本企業ではコンセンサス(合意)に基づく決定が行われ、決定に時間はかかるが実行は速いと、いわゆる稟議制度を評価する。
  2. 雇用保障と生産性等との調和: 日本企業では終身雇用と年功制度により、雇用を保障することで、従業員の心理的保障と生涯訓練による生産性向上がはかられ、これは米国における失業補償、先任権といった制度よりも優れている。
  3. 若手管理者の育成: 日本企業では大学の先輩・後輩からなる非公式なグループがあり、それに乗って教育と人事考課のシステムが機能するために、意思疎通に優れ、長期間の多面的な評価でトップ・マネジメントを選抜するのに効果的である。

 翌1972年に出版された経済協力開発機構(OECD; Organisation for Economic Co-operation and Development)の『OECD対日労働報告書』(経済協力開発機構, 1972)では、時の労働事務次官、松永正男は次のような文章を「序」に寄せている。

「OECDが日本の労働力政策を検討するにあたっての中心的な関心と問題意識は、日本的風土のもとに形成された生涯雇用、年功賃金、企業別労働組合という雇用賃金慣行−報告書ではこれらを総称して「日本的雇用制度」(Japanese Employment System)といっている−が、いわゆる<三種の神器>として日本の経済成長にいかに貢献したか、それが現在どのように変貌しつつあり、労働力政策に対してどのような課題を投げかけているか、ということにあった。」

 実に肯定的な評価が与えられている。こうして、終身雇用、年功賃金、企業別組合などが日本的労使関係の「三種の神器」と呼ばれるようになった。戦後直後に発表されたGHQ労働諮問委員会(Labor Advisory Committee)の「恒久的賃金制度に関する勧告」では、当時の年齢、性、婚姻状態の相違に基礎を置く賃金給料制度は経済的に不健全であり、不公平であり、将来、排除されるべき雇用慣習の一部と考えられていた(高田, 1982)というから、まさに様変りである。

 間と共同で日立製作所の日立工場・多賀工場を、そして英国のイングリッシュ・エレクトリック社の2工場を調査して比較したドーア(Ronald P. Dore; 1925-)の『イギリスの工場・日本の工場』(British factory-Japanese factory) (Dore, 1973)は、日本の工場について、間と類似した企業福祉集団主義を指摘した。しかし実は間もそうだったのだが、ドーアは日本的経営の集団主義的性格については、戦後の社会民主革命を経てもなお残る前近代的な家父長主義的性格のものという考えはとらなかった。それどころか、ドーアは逆に、日本の工場の企業福祉集団主義を、産業社会が向かいつつある発展傾向の最も先端的な姿として捉えていたのである。

 同じ1973年には、アベグレンが1958年の『日本の経営』(Abegglen, 1958)の新版として『日本の経営から何を学ぶか』(Management and worker) (Abegglen, 1973)を出版する。旧版を第2部とした3部構成に変えているが、その際、旧版で終身雇用や年功賃金に対して否定的な評価を与えていた第7章「日本の工場における生産性」については、これを章ごと完全に削除してしまった。その上で、新たに付加した第1部「70年代における日本の終身雇用制」では、「日本の終身雇用制が非常に大きな強みをもっているにもかかわらず、それは非能率的であり、実際にはうまく働かないと西欧では一般的に見られている」ために西欧中心主義に陥りやすいのだと、『日本の経営』とは真逆の評価を高らかに宣言する。そして、日本の終身雇用制の強みとして、次のような点を挙げたのである。

  1. 年功賃金であるために、学卒者を多数採用する成長企業は人件費を引き下げると同時に最新の技術教育を受けた人材を確保できる。
  2. 終身雇用のため、学卒者は慎重に成長企業を選択するというように、成長企業には有利なシステムになっている。
  3. 終身雇用と企業別組合のおかげで、日本企業は労使関係に破滅的なダメージを与えることなく、企業内の配置転換によって、急速に技術革新を導入できた。

 こうした海外の研究者の見直しの動きに背を押されるように、1970年代半ばからは、日本の研究者にとっても、日本的経営のブームが到来することになる。代表的な論者としては、津田眞澂は、戦前の経営が家族的編成の原理に立っていたのに対して、戦後の経営はそれとは別の原理によって編成されていて、たまたまそれらが外形的に近似したに過ぎないとした『日本的経営の擁護』(津田, 1976)を序曲として、自身の日本的経営論の集大成と評する『日本的経営の人事戦略』(津田, 1987)まで、「日本的経営」をタイトルに入れたものだけでも8冊を著わしている。

 これに対して、戦前、戦後を通じて日本的経営の根底にある一貫した編成原理が存在していたとする立場のものとしては、岩田龍子が『日本的経営の編成原理』(岩田, 1977)で、日本的経営の背景を、日本の伝統的な社会や文化、あるいは日本人固有の心理特性として安定性志向の強いある種の集団主義に求める。他方、アベグレンの翻訳者でもある占部都美は『日本的経営を考える』(占部, 1978)において、終身雇用、年功昇進、年功賃金といった制度は、いずれも日本的経営の不変の要素というわけではなく、その根源に、経済合理的、適応的な側面があるのであって、低成長経済のもとでは、終身雇用には雇用調整、年功昇進には能力主義、年功賃金に対しては職務給という変化が現れてきているとする。

 こうして日本企業の経営システムが国の内外で注目を集める中で、1980年代以降の日本的経営のブームの火付役を果たすことになる研究が、米国で伏流的に静かに進行していたことを指摘しておかなければならない。1970年代以降、日本企業の海外直接投資が本格化し始めたなかで、例えば、米国の日系企業と純粋な米国企業との比較研究が行われていたのである。パスカル(Richard Tanner Pascale; 1938-)とオオウチ(William G. Ouchi; 1943-)は、1973〜1974年に20社以上の日本と米国の企業を訪問調査した。その成果は1974年の共著論文 (Johnson & Ouchi, 1974)に著わされるが、その後、パスカルはさらに詳細なデータ収集に進み、一方、オオウチは「セオリーZ」的な米国企業の調査に進む。

 パスカルによる米国の日系企業の研究によれば、ボトム・アップ・コミュニケーション、公式文書、協議による意思決定という点で、日本企業の特徴が指摘される(Pascale, 1978a)。さらに業種、組合組織化の程度、事業所の設立年、技術要因などをコントロールして、米国の現地企業と日系企業の各11社について、従業員に対するアンケート調査、管理者へのインタビュー調査、文書調査を行った。その結果、日系企業は従業員の交流、レクリエーションに米国企業の2倍以上の額を支出しているし、第一線管理者1人当りの作業員数は米国企業29.1人に対して日系企業14.8人、20分間に同僚と話す頻度も米国企業44%に対して日系企業66%、といったようにコミュニケーション面では違いが見出された。しかし、仕事の満足度については両者に差は見られず、また日系企業の方が欠勤、遅刻、離職が多いというように、必ずしも、日系企業のパフォーマンスが良かったわけではない(Pascale, 1978b)。


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